金屋町の人
磯部敏子
御印祭では、神妙寺にはたくさんの若い男性たちがやってきます。伝統産業青年会、金屋町青年協議会の皆様が衣装に着替え、食事と後ふきをします。そしてかっこいい男踊りをしたいと、西高ダンス部と富大芸文のすてきな女子もやってくるのです。
おまけですが、
住職の小学校時代の友達のおじ様たちが毎年楽しみにしてやってきて酒盛をしています。女子の通り道になるので数人がおじ様にひっかかってしまうこともあるのです。もちろん青年部の人たちも話しかけてくれるので、交流は広がるばかり。
いったいどれだけの人たちがこの狭い空間の中で祭りを満喫しているのでしょうか?
日頃は静寂な空間が一気に若い元気な空気に満ち溢れるのです。年齢には関係なく。
祭りという不思議な魔力に身体全身で酔いしれている自分に気付くのです。
森田義夫
思い起こせば、私が金屋町に来て12年経ちます。当時よりこの町は伝統建造物の町、歴史ある町として知られていましたので、大変な所へ来たなと思ったものです。
5〜6年前まで金屋町は現在の1町ではなく7ケ町(旧町)で組織されていました。私は4年前に旧宮川町の町内会長となりました、それは金屋町自治会の副会長になる事でしたので、この先どうなる事かと大変悩んだものです。
最初の役員会の時、事務局の方より「何でも自分の思っている事を言ってください」と言われ、気持ちが少し楽になり自分なりの意見を言ったら皆さんが真剣に討論してくださったので、金屋町の人々は後から来た者の意見も真摯に取り上げてくれるんだなと思ったものです。と言いますのも、以前住んでいたところで私は30年近く住んでいましたが、生まれ住んでいないよそ者の意見は聞かないという風潮だったので、このことはいささか驚いた出来事でした。そして、分からない事があれば嫌な顔をせず笑顔で答えてくれたりしましたので、金屋町に住んだ人はみんな仲間だと思っているんだと気づかされたものです。
金屋町には御印祭という歴史ある祭りがあります。初めは鋳物師の祭りだから関係ないと思っていましたが役員になり、協賛広告のお願いに企業、商店、個人などを回りますと皆さん嫌な顔をせず笑顔で「頑張れ」、あるいは「もう、この時期が来ましたね」と励ましてくれました。
本当に皆さんが御印祭を楽しみにしているんだなあと感じると共に、御印祭運営のお手伝いをしているうちに御印祭のすばらしさ、楽しさが少しずつ身に沁みるようになり今日では、毎年御印祭が無事行われるよう協力していきたいと思うようになりました。
金屋町へ来てこの町の人々の優しさ、心の広さそして新しく金屋町へ来た人もみんな仲間だと思う心、本当に良い町に来たと思っていますし、今後とも皆さんと共に金屋町の発展に微力ながら協力して行きたいと思います。
大寺雅子
京都より高岡に嫁いで早40年 初めて高岡の駅に降り立ったときに感じたどんよりとした空気が今は懐かしい。その空気は今や何事もなかったように 400年の歴史を包み込んだ古い家々と共に、その時代の住人の生活を静かに見守っている。私どもの家は「大寺幸八郎商店」として石畳通りの中ほどにある 万延元年、初代幸八郎が鋳造業を生業として金屋町の住人となってより、細々と6代をつないでいます。
時代は「繁栄」と「忍耐」を繰り返し私たちに挑み続け、今も時代に追いすがりながら金属の不思議な魅力に取り付かれています。 さて今、金屋町は「金屋町元気プロジェクト」と称して 新しい住人を迎える「金屋町定住促進計画」を進めています。重伝建(国の重要伝統的建造物群)の中で歴史を感じながら生活をして見ませんか?
古くて新しい不思議な魅力のある金屋町・そのメインストリートの石畳に 「星」と「ハート」が所々に埋め込まれています。 「希望」と「暖かい思い」が込められているのだと思っています 。
一度是非探しに来てください 。 お待ちしています。
藤田和人
金屋町鋳物師七人衆の子孫として金屋本町の鋳物屋の家に生まれ育ちました。私は藤田家直系18代目で、現在も鋳物関連の仕事をさせて頂いております。
加賀藩二代目藩主「前田利長公」が河内から召集した鋳物師七人衆が移り住み、鋳物の鍋釜を作っていた事が「金屋町」の始まりだと聞いています。
昔、私の家では電車のブレーキ部品を製作していましたが、昭和の高度成長期に工芸品の製作に変わってきました。
毎年6月19日、20日に金屋町のお祭り『御印祭』が開催され、前夜祭に行われる弥栄節の町流し踊りは、竹の棒を持った男踊り、手ぬぐいを持った女踊りがあり、千本格子「さまのこ」の町並みとボンボリの灯りでとても情緒があります。
我が家では藩主前田利長公から頂いた『鋳物師免状』を床の間に飾り、鋳物師七人衆の歴史がここに詰まっているのを感じる事ができます。七人衆の末裔に生まれ、今でもこの高岡鋳物発祥の地「金屋町」に住んでいる事を誇りに思っています。
金森仁志
我が家のご先祖様(源平さん)は金屋町の鋳物師7人衆としてこの地に住まわれました。その枝葉の血筋ではありますが400年の時を経て私ら末裔が暮らしております。
昭和生まれの三世代6人家族で家族全員が昭和生まれも珍しいのかと思います。 (それだけ昭和の年号が長かったのでしょうね)
我が家の初代(慶応生まれ)、二代目(明治生まれ)も銅器の職人でした。親(三代目)と子(四代目)は高岡銅器の加工業を営んでおります。
四代続く銅器職人一家です。孫の(五代目)は大学を出てホワイトカラー3年目です。
さて銅器の職人さんもめっきり減ってきました。今となれば貴重な存在ともいえます。
我が家の職人血筋がどのようになるのか金森家職人ドラマの行く末に興味がわきます。
小泉昇(茶道裏千家講師)
金屋町には2007年に移り住みました。生まれは高岡市清水町で、住宅街という地域性もあり、お祭りといったら5月に行われる御車山祭りに繰り出す事くらいでした。
暮らして先ず感じたのは、町のイベントやお祭りといった催事が多く、とてもコミュニティーの強い地域だという事です。
町内総出で行う御印祭(弥栄節)は歴史も古く、また風情や情緒がありとても素晴らしいお祭りです。さっそく弥栄節保存会に入れて頂くと共に、色々な催事に参画していると、町の活気や住民の誇りが垣間見えるようになってきて、益々金屋町が好きになりました。
我が家は明治・大正期に建てられた古民家ですが、四季を肌で感じながらお茶のお稽古を通して、楽しい日々を過ごしております。
山本貞明
昭和55年の3月に、娘の誕生を機に金屋町に移り住みました。以来いろんなことを楽しむことをモットーに、町の行事に参加しています。
季節感を味わう催しで、風習の違いで戸惑ったことも多々あります。特にお盆の過ごし方ですが、盆踊りを中心に「動の行事」が始まり、燈籠流しによる「静の行事」で終る故郷の一連の流れは、今でも懐かしく思い出します。
初夏の風物詩として親しんできた御印祭(弥栄節)の在り方に、二つのスタイルがあるのではないかと思います。派手なパフォーマンスを求める人達、一方では町民も楽しみながらゆっくり過ごすあり方を望む人達。弥栄節は元来労働歌(作業唄)なので、今のままで良いのかと考えさせられたりもします。そんな金屋町、楽しんでいます。
秋元和子
高岡銅器発祥の地・開祖前田利長公の命日に遺徳を偲ぶ御印祭、風情ある「さまのこ」の町並を嫁いで始めて知り、素敵な町だなぁ〜と誇りに思いました。
御印祭の弥栄節踊りに初めて参加した時、公民館で指導される方に丁寧に教わったことを思い出します。お祭りは町流しの参加・お手伝いを通して町の方々と交流し、親睦を深めるひとつのコミュニティの場となっています。
さまのこ通りに以前湯葉屋さんがありました。お店の前を通るとゆば製造時に漂う独特の香りがとっても「イ〜香り」だったので大好きでした。
そして近年、家族からチャンスを頂き嘗ての湯葉屋さんのようにはいきませんが、やわやわとゆばを採って仕事に励む感謝の日々です。
鍋谷五郎
金屋町で生まれ育ち18歳で上京。56歳の時に体調を崩し、入院療養を機に金屋町の住民に戻りました。
子供の頃に泳いだ千保川、鯉やうぐいに驚き、福井地震では波打つ防火用溜池に怯え、小学校では弥栄節の授業があったのを覚えています。そして、昔ながらの「さまのこ」と「石畳」のわが町は東京からの来客が江戸時代にタイムスリップしたと感嘆し、ネットで金屋町をみては感激する。いずれも幼年期とは隔世の感があります。
親睦を兼ねた町内のゴルフコンペも楽しみの一つです。車で約30分〜1時間内には本格的なゴルフコースも多く北陸新幹線の開通で東京の友人とゴルフも夢ではなくなりました。
地方衰退が叫ばれる中、金屋町には心地よいコミュニティ、古く美しい街並みなど、多くの人に発信できる魅力があるように感じます。
般若陽子
金屋町は高岡鋳物発祥の地として鋳物・銅器・アルミの地場産業の根幹を成し、慶長16年(1611)の開町以来、高岡と共に歩んだ歴史と伝統、そして御印祭の継承は金屋町住民の大きな誇りであり大切な遺産です。
昭和57年(1982)金屋町まちづくり推進協議会の発足後景観整備事業として石畳と消雪装置化、鳳鳴橋の鳳凰像設置、さまのこ(千本格子)をイメージした噴水のある金屋緑地公園の造成などにより昭和61年(1986)建設省より第一回「手作り郷土賞」を受賞しました。また、平成24年(2012)には文化庁より国の重要伝統的建造物群保護地区(重伝建)に選定されました。
私はボランティアガイドを通して、400年にわたるこの町の魅力と鋳物師(いもじ)の心意気を多くの方々にお伝えしたいと思っています。